祭と年中行事

男成神社祭礼の事

    • 四月三日、男成神社大祭 祇園さん
      恒例の春の大祭であり、祇園祭は本来六月十五日で
      あるが、田植えの始まる農繁期のために四月三日に
      変更された。
    • 男成神社祭礼の事
  • 豊穣祈願-交通安全祈願がなされる-
    当日は少女神楽が奉納され、御祭の式典が終わると奉納芝居が上演される。古くは四月三日、四日と二日間にわたって芝居が奉納されたが、今は一日となった。近郊近在の老若男女が弁当(割ゴ重=十人分入った重箱)を背負って集まったものである。境内は各種の幟と共に店が並び、音楽の賑やかさも手伝って全くのお祭り気分。外に娯楽とてない農村の若い男女の恋を囁く場所でもある。ここで結ばれたカップルが髪型を整え着飾って、芝居見物の皆んなに披露する場面も。少女神楽そして三番叟の御祝奉納も格式があり葉名やか巌かな気分であった。今もその伝統は続けられており、氏子三百名近くで芝居の代金は各戸割で徴収される事となり、今もそれは変わっていない。
    更に御花の御礼がある。毎年その部落に対して花を差出すこの御花の御礼は、舞台からマイクを通して行われる。更に加えて白紙や障子紙に張出す風習があり、当日の社前はこの張紙で更に賑やかとなる。疫病平癒の神様、年々華やかとなって来た祇園さん、更に続いていくであろう。
    又、名物のおこしがある。黒砂糖でまぶしたおこしであり、矢部の名物であった。おみやげはおこしと相場が決まっていて、弁当の御返しはおこしと決まっていたが、そのおこしやさん山本武行氏が六十七才の若さで他界されて、そのおこしも消えてしまいそうで大変淋しい事である。
  • 夏祭り-疫病除けという恒例の行事-
    夏の土用に入ると暑さの中にいろいろの伝染病が流行した。医療機関のなかった当時は、之に感染しないようにとの願いが悪病除祈願となったのであろう。氏子全部酒と肴を持ってお詣りする。年番の人達は葦・蘆を切り大きな輪を作り、之を拝殿の前に掲げ、参拝する人は之を潜って拝殿に入る。宮司はそれぞれ部落ごとに祭詞を唱え、祭礼を行う習わしである。悪い病気に感染しないようにとの願いが込められている。年番の人達は社務所で参拝される氏子の人達に御茶を酌み、氏子の人達は部落毎に御神酒を戴き、暫く宮司の御話に耳を傾けて帰る習わしがある。
  • 秋の大祭-相撲の奉納-
    夏の土用に入ると暑さの中にいろいろの伝染病が流行した。医療機関のなかった当時は、之に感染しないようにとの願いが悪病除祈願となったのであろう。氏子全部酒と肴を持ってお詣りする。年番の人達は葦・蘆を切り大きな輪を作り、之を拝殿の前に掲げ、参拝する人は之を潜って拝殿に入る。宮司はそれぞれ部落ごとに祭詞を唱え、祭礼を行う習わしである。悪い病気に感染しないようにとの願いが込められている。年番の人達は社務所で参拝される氏子の人達に御茶を酌み、氏子の人達は部落毎に御神酒を戴き、暫く宮司の御話に耳を傾けて帰る習わしがある。

年番制度

  • 三月十五日 祇園寄合
    毎年三月十五日は祇園寄合が開かれる。四月三日の大祭を始め年中行事そして之に伴う費用など、一年の計画が立てられる。前年の反省として留意事項等討議されるが、一番は余興をするかしないかその費用は等、決まればその踊りの費用は氏子の直接の負担となり一戸の出前が決まる。この余興も続けるか止めるか時代の変遷と共に発展的な意見があったが、伝統行事であり続けようと結論付けらて今日に至る。ともあれ神社と民衆が足繋くつながる事が望ましいのである。
  • 三月三十日 舞台かけ
    氏子さん達が集まって踊り舞台を整備し、注連を作り旗や幟を立て御祭りをするための準備を整える。労力が余れば周辺の山の手入れも行う。年番は御祭の準備の中に案内状の配布がある。御花の事もあり近郊近在にまで配布する。

    ・その外の行事
    七月十五 夏祭り
    七月土用 悪病除け
    七月二十八 阿蘇宮御田祭
    八月十五 御盆
    十月一日 相撲奉納
    十一月十五日 七五三の御祝
    一月一日 元旦祭り

    この様な行事の中で前日には必ず清掃、
    そして打合わせ、お茶くみ等々年中忙しいし、
    年番の宮総代さんなり駐在員さんは、これに忙殺される事となる。
    年番制度